真の当事者はどこにいるーあるいは、語れる当事者と「劣化する支援」について

先日、今年の2月24日にfacebookに公開投稿した文章に久しぶりにいいねが付いていた。半年を経て再会した自分の文章は、もう一度自分の中で考えてみるべきことだなと思ったので、ここに転載してみる。いま読み返すと、付け足したい点や注釈をつけたい点がいくつかあるのだけれど、そのまま載せてみようと思う。

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一部の人にしかさっぱり通じない話だと思うのですが、少し書いてみます(2.25下部に追記

「劣化する支援」のイベント告知やそのレポ、田中俊英さんのブログが、よくシェアされてくる。というか私も、田中さんをフォローしていて、日々の投稿なんかもちらちら読んでいる。昨今の子ども支援や、貧困と格差解消に挑むNPO、その中でも特に目立つ業界的な有名どころへの違和感、そういうのは私も分かるなという部分があるので、面白く読んでいたりもする。

が、どうしても気になる、引っかかる点がある。田中さんは「サバルタンは語ることができるか」を引用しながら、真の当事者というのはそういった支援やNPOにもつながれない人々であって、有名NPOが目立つことによって、真の当事者がますます見えない存在になることを危惧している。そして、真の当事者ではない、まあなんとか支援につながれる、場合によっては自ら当事者として語ることが出来る人々のことを、「エリート当事者」と表現している。

あえて刺激的で分かりやすい表現を使用していることは分かるのだが、この表現に、私はちょっと心が痛んでしまう。フリースクール友達で「語る」役をやっていた人はすぐ分かると思うけど、かつての私たち(恐らく日本で一番有名なフリースクールに通う不登校の子ども)は、しばしば「不登校エリート」と揶揄されてきた。あなた達は例外だ、不登校一般を代表するものではない、だからあなた達の話は面白いけど参考にならないし、不登校についての検討材料にはならない……そう言われ続けてきた。

私自身は「不登校エリート」ではなかった。というのも、人前で分かりやすく自分の経験を喋ることが出来なかったため、エリートらしくメディア取材を受けたり講演会で喋ったりしたことはほとんど無いのだ。喋れなかった理由は「どこかおかしい学校教育と、そこからはみ出してしまう自分」という定型の語りに、自分の経験(学校以外の出来事でも多く傷付いて、今思えば病気のレベルまで心のバランスを崩した)を乗せられなかったから。だから、不登校エリートと言われるだけのことはある、立派な語りが出来る友人達がいつも羨ましかったし、僻んでもいた。そして自分が劣っているように感じていた。

ただ、外側から見れば私もまた不登校エリートの一部であっただろう。エリートである理由は、見る者によっても変わるので、何かしらには引っかかる。淀みなく自分の経験を話せる知能や社会性なのか、それなりの額の金銭的負担が生じる場所に通える家庭の子だからなのか、学校や公的機関以外のリソースにつながれる社会関係資本を持つ子だからなのか。

現在の私は、不登校エリートと言われても、言われなくても、どちらでも構わない。大人になるにつれ、昔は羨ましかった友人達も、簡単には人に言えない悩みを抱えていたことを知っていった。みんな、実は全てを洗いざらい話していたわけではないこと、大なり小なり大人の求めに応じて理想の当事者像を演じていたこと、自分が不登校を代表してしまう違和感を抱えていたこと……それらが分かるようになった。みんな葛藤していたし、年月の経過とともに、人前で語ることはしなくなった者、語りの内容を変化させていった者もいる。エリート当事者も悩んでいるのだ。あんまりエリートじゃなかった私も悩んできた。いや、悩まなきゃいけない状況にさせられてきたとも言える。

そんなわけで、困難な状況にある人々、その中でも特に弱い立場にある子どもや若者に分断を生みかねない言説には警戒心がある。支援論を戦わせるなら支援者の皆さんで勝手にやって頂きたいし、当事者を巻き込まないでほしい。「語れる/語れない」の問題なんて、そんなに目新しくもないだろう。最近特に、物語として目を惹く語りを有り難がる風潮があるなら、物語消費とか感動ポルノとか、いくらでも切り口あるでしょう。そうでもしないと資金調達できない社会に異を唱えることだって出来るでしょう。社会保障を問うてもいいのよ?

個人的にびっくりしたのは、叩き上げのNPO支援者だけでなく、学問的なバックグラウンドを持つ専門職や研究者でも無批判に同調しちゃうの?ということだった。なんかちょっとショックで。

後半からキツイ書き方になったけど、私は怒っていたのかもしれない。かつてのエリートコンプレックスの私も、一生懸命喋ったら「あなたは運が良かったのね」と言われた私も、その後支援者になって世間知らずだったことを突き付けられ泣きながら勉強してきた私も。

「劣化する支援」論や、田中さんの論が、当事者に何か言うためのものではないことは分かっている。しかし当事者をカテゴリ分けして、あなた達ではない本物がいると便宜上でも言ってしまう以上、こういう批判が出ることは引き受けてほしいなと思う。

あー長文。公開投稿の方がいいのかな。→公開にしました

追記
田中さんの記事をちゃんと紹介していなかったので、こちらにリンクを貼ります。

toroo4ever.blogspot.jp

lite.blogos.com

news.yahoo.co.jp

3つ目の記事は少し前のもので、エリート当事者という表現はされていません。私個人としては「うっ…」と苦しくなる部分もあるのですが、この視点は大事だし、語れる/語れないについて丁寧に書かれていると思います。

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fbからの転載は以上。投稿には友人からのコメントもいくつかついて、私自身もこのあたりを更に考えていくきっかけになった。ここのところ、ソーシャルセクターのあれこれ的な話をよく目にするし、自分でも考えるので、いったい自分の原点や基盤はどこにあるのかということを、先日もまた考え直していた。

どれだけ知識をつけても、数量的な分析に必要な話ががわかるようになっても、今は現場離れてるからむしろ感覚衰えてるけど今後また支援の力量が上がっても、たぶん一生、自分についてまわる話なのだ。呪いでもあり、希望でもあり、自らを呪うための呪詛もまた、祈りなのだ。私は、自分の語りを使って何かをしたいと思うに値する人間なのか?、「真の当事者」なのか?と。

FBの投稿はこちら↓

https://www.facebook.com/miho.komatsu88/posts/1862324517175902